「ガリレオの生涯」特別企画

「ガリレオ」という思想、ゼロ年代からの見晴らし
~ガリレオの伝記を執筆した田中一郎氏に聞く~

 世界天文年2009は、イタリアの科学者ガリレオ・ガリレイが望遠鏡を使って天体観測をした1609年から400年を記念する国際年です。
  「観測天文学」のはじまりを「ガリレオ」という単語と結びつける私たちの考え方は、いったいどこから来ているのでしょう。市井(しせい)に生きるガリレオの人生を、イタリアに現存する膨大な文献に基づいて明らかにした伝記『ガリレオ―庇護者たちの網のなかで』(中公新書)の著者、田中一郎氏(金沢大学大学院自然科学研究科教授)に、「ガリレオ」が現在の私たちにどのような意味をもたらしているのか、お話をうかがうべく、石川県金沢市の金沢大学にお邪魔しました。
田中氏は、ウェブコンテンツ「ガリレオの生涯」の監修者でもあります。本編の「ガリレオの生涯」をご覧の上でこの記事をお読みいただければ、ガリレオの理解がいっそう深まることでしょう。

聞き手/構成/撮影: 西山保長(国立天文台天文情報センター)

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「科学史家」ができあがるまで

――日本において、「ガリレオ」という単語は「思想」として流通しています。さまざまな毀誉褒貶(きよほうへん)*1を含みながらも1980年代のニューアカデミズムを先導した雑誌として知られる『現代思想』(青土社)の2009年9月号の特集は「ガリレオ」でした。では、どのような人たちがガリレオ・ガリレイについて研究しているのでしょうか。たとえば、大学で科学者を養成するコースでガリレオの著作の原典に触れることは通常ありません。ガリレオをはじめとする科学者個人を学問対象として捉えているのは「科学史」といわれる学問領域です。しかし、物理学者や歴史学者はたくさんいても、科学史の研究者は数が少ないように思います。

  そう、日本でも世界でも少ない。

――ガリレオについて語る視点として、科学者のもの、人文系の歴史学者のもの、などいろいろありますが、視点の設定の仕方によって、ものの見え方が違ってくると思います。田中先生のガリレオ観のもととなっている、学者としての今までの歩みを聞かせていただけませんか。

  神戸大学の理学部物理学科から東京大学の科学史・科学哲学研究室(以下、科史科哲)の大学院に進学しました。1960年代の半ば、物理帝国主義の時代で、理学部のなかでも物理学科が一番格上で、さらに物理学というと素粒子論です。そういうイメージで理学部物理学科に入ったのです。しかし、物理学全体ではもう一人で何かをやるという時代ではなかった。そんな時代ははるか昔に終わっていました。もう紙と鉛筆の学問ではない。グループでやる、研究費をかき集めて実験するという現在の物理学の実態は自分のイメージとは違いました。それだけではなく昔から歴史的なものが大好きだったので、一人で研究できて、理科系でお金もかからない分野というと、科学史ではないかと思ったわけです。たまたま神戸大学の教養部に科学史の青木靖三*2先生がいらして、青木先生の研究室に「科学史をやりたいんです」と言って訪問したのです。単位になるわけではないのですが、大学2年くらいから、青木先生と輪読を始めました。科学史の専攻に入ったのは大学院からですが、学部のころから科学史を志していたということでしょうか。

――たとえば、哲学ならカント、英文学ならシェークスピアというように、その専門の「王道」ともいえる研究対象があると思いますが、科学史ならガリレオになるのでしょうか。

  必ずしもそうではありません。科学史家というと日本の場合、理系出身の人が圧倒的に多い。問題となってくるのは語学です。今でもガリレオをはじめとするイタリア関係は実は多くない。やはり英語が使えるイギリスが中心でしょう。

――イタリア語やラテン語はどちらで勉強されたのですか。

  第二外国語はドイツ語だったので、青木先生と輪読をしようということになって最初はドイツ語の本を読みました。半年して、今度はデカルト。つまりフランス語ですね。デカルトの『哲学原理』などを読みました。

――理学部物理学科ではあるけれども、けっこう文系的であったと。

  そうそう。ただ青木先生は文系出身で理系の出身の人とは興味がちょっと違っていた。それがかえってよかったんです。イタリア語もそういった感じで身につけました。

――科学史の専攻があるところというと当時は東大しかなかったから、それで大学を卒業後、東京大学大学院の科史科哲に進まれたということですね。

  大学院での指導教官は伊東俊太郎*3先生でした。修士論文は光学についてホッブズに取り組みました。

――東大の科史科哲出身と聞いて、中島義道*4氏や東浩紀*5氏を思い浮かべる人も多いと思いますが、彼らは哲学者です。科史科哲というのはどのくらい理系的なのですか。それとも文系的なのでしょうか。

  いやいや、科学史家として研究をしている人には文系も理系もいます。でも、物理学のなかで、新しいところ、例えば量子力学とかは文系の人にはとっつきにくいでしょう。数学も同様です。院生も理系が圧倒的に多い。

――で、修士号を取得して、大学教員になられたのですね。

  日本大学の廣重徹*6先生のもとで助手になりました。光学史の研究を進めました。科学史、とりわけ物理学史のなかで比較的研究の進んでいない分野が光学だったのです。力学はやっぱり近代物理学の保守本流ともいうべく研究が盛んです。だからこそ逆に自分は光学に打ち込んだ。実はガリレオをやりだしたのは、青木靖三先生が亡くなってからですね。金沢大学に赴任する直前で、1977年頃でしょうか。

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天才はなぜ「ガリレオ」と呼ばれるのか

――田中先生の今の主な研究内容は何ですか。

  中心はガリレオです。でもそれだけではなくて、15世紀から17世紀の科学研究を取り巻く社会・文化・政治などを包括的する研究を行っています。具体的には、今の私の所属が工学系であることにも関係して、15世紀末に成立したヴェネツィアの特許法に取り組んでいますね。特許法が成立する以前にも、成文化はされていなくても特権の付与というかたちで特許法と同じようなものがありました。また、特許法ができた後でも、特許法の条文とは外れるような方法での特権的な特許の認可というものが行われています。当時、科学技術の発展に特許法が現在と同じような役割を果たしていたのか、あるいは、今とはまったく違った役割を果たしていたのか。現代の特許制度をそのまま過去にあてはめることはできないから、もう少し突っ込んでみようと研究しています。ガリレオは揚水機で特許をとっていますが、彼がヴェネツィア政府に申請した書類などはほぼ完全な形で残っていて、ガリレオ全集にも収載されている。ところがその書類と1474年に制定された特許法の条文とが微妙にずれているんです。だから、ガリレオは何に基づいてその書類を作成し申請をしたのか。ヴェネツィア政府はまるで百数十年前の特許法がなかったかのような素振りで審査しているのですよ。なんとも奇妙な話でしょう。

――科学史の研究というのは、観念的ではない、そういう実証的なものが中心となるのですか。

  当然、具体的な史料に基づくことになります。おそらく戦前、戦後すぐの科学史研究というのは、科学はこうあるべきだとかこうあってほしいという願いが歴史に色濃く反映されていた時代でありました。今ではそういうのは駄目でしょう。読み物ではなく、学問として確立しなければならない。日本の大学のカリキュラムとかを見れば、科学史が学問として完全に確立しているかどうか、ちょっと疑問な点はあります。ただ、いずれにしても他の歴史学と並んで自立するには資料的な裏づけが必要になる。個別の事実を明らかにしていく中で、科学や技術を推進していったダイナミズムをあばきだすのが、これからの科学史研究になります。昔の科学史は偉人伝的なところがありましたね。ワットとかエジソンとかのそういう偉人伝をやるのは昔の科学史研究です。

――ガリレオが科学に殉教したというイメージは過去の時代の科学史研究によってもたらされたということですか。

  そうです。科学の進歩をさまたげる者とそれに貢献する者との闘いがあって、その闘いの中でガリレオは不幸にも敗れてしまったヒーローなんだ、と描く。日本人的な美談としては格好の材料です。

――今年は「世界天文年2009」ですが、ガリレオが望遠鏡を使用した時点を起点にして、それから400年が経った年を世界天文年と設定することに対して皆が納得しているというのは、科学におけるガリレオの地位を象徴しているのでしょうか。

  ガリレオは科学のなかでやはり特異な人物であったと言えます。「ガリレオ」という名を使ったドラマや企業はたくさんあります。しかし、「ニュートン」はない。

――普通に物理学を勉強するとニュートンのほうが偉大な気がします。高校で習う物理はニュートン力学が主です。逆に、ガリレオに直接に触れることはないと思います。でもテレビドラマなどのタイトルには「ガリレオ」と使う。なぜ世間ではガリレオのほうが通用しているのでしょう。

  やはり宗教裁判などドラマチックな人生がガリレオにはあったからでしょう。ニュートンはそうでもないのです。ニュートンは興味の多様性がなく、物理学と数学だけに打ち込んだ。錬金術に没頭したという逸話を勘案しても、ニュートンには人間としての面白みがない。ただ、ガリレオが劇的な生涯を送ったということだけではなしに、1609年にガリレオが望遠鏡で天文観測をしたというのは、科学史の枠を超えて画期的なことだったと言えます。それまでの科学者は自身で自然を見るということはほとんどありません。古代の権威者、たとえばアリストテレスや医学のガレノス、天文学のプトレマイオスとか、そういう人たちの書物をひたすら解釈するのが科学であるという時代が延々と続いた。解剖学などで、解剖結果が古代の権威者の書いていることと違っていたら、それは自分が見ている人体、つまり目の前の自然のほうが変則的なんだ、というふうに考える。見たことのほうが普遍的で、書いてあることが間違っているという証拠はどこにもないのです。あらゆる人体を解剖するわけにはいきませんからね。古代の権威に批判を加えることはなかったということです。古代の権威やキリスト教も含めて、すべてを包括するひとつの整合的な自然観ができていた。だから、あえて自然を直に見る必要もなかったのです。それだからこそ「ガリレオが自ら空を見た」ということは画期的なことなのです。

――1609年というのはやはり、「自然科学」の成立を象徴する年であるということですか。

  自然そのものに目を向けたという意味では画期的な出来事なのです。それは当時のガリレオ自身が必ずしも学者として権威ある人ではなかったことにも関係します。時代背景からして、学者が自分でレンズを磨くなんてことはありえない話です。普通、学者はそういう職人的なことはしません。しかも学者が夜起きて自分で空を見るというものありえません。その意味でもガリレオは自然研究の節目にいた人物です。

――世界天文年が2009年に定められたというのは田中先生から見ても整合性があるし、納得がいくということですね。

  もちろんです。ニュートンの万有引力の発見とか発表とかの何周年をやるより、はるかに意味があるでしょう。

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「ガリレオ」を成立させた土地

――1989年にフィレンツェに留学していらっしゃいますよね。

  1年間滞在していました。

――イタリアでの研究生活というのはどういうものですか。

  住み始めた時はまだまだイタリアの悪い評判、たとえばジプシーが物乞いをしているとか、スリとかかっぱらいが跋扈(ばっこ)しているというのが誇張ではなく実際だった時代でした。しかし、1990年にイタリアでサッカーワールドカップが開催されて以後、治安は非常に良くなりました。フィレンツェに住んだのはそこに科学史研究博物館があり、またフィレンツェ大学のパウロ・ロッシュ先生のところで研究していたからです。イタリアは観光で行くのと、研究などで寄留するのとでは全然違う土地です。ホテルに泊まってレストランで食事するだけなら何の問題もないでしょうが、住むというのは大変ですよ。イタリアの建物はとても古いから水廻りとかさまざまな問題が出てきます。日本の古い鉄筋住宅に住むのとよく似たところがありますね。けれど、イタリア社会で日本人が生活することにはそれほど問題はありません。プラス面で良かったと思える面はいろいろあります。日本にいたころ、バチカン図書館に資料を請求するのに、丁寧な手紙を書いて資料のコピーを依頼しても梨の礫で、ほんとに返事すらなかったんです。ところが、バチカン図書館に週一で通うようになって、バチカン図書館の館内のコピー依頼申請書に記入して手続きをすると、イタリア国内だと普通ひと月くらいしてコピーが届くのですが、日本に帰ってきてからもその申請書を使って郵送するとすぐにコピーが送られてくるんです。身内になったんでしょうね。申請書にはそのときにもらった入館証の番号を記入していますが、何の問題もありません。イタリアはどの図書館でもコピーサービスは進んでいないから現地に行かないと駄目ですよ。ガリレオの手書きのものが読めたのもよかったですね。現物を見ると、修正する前に何が書いてあったか、インクの色の違いなんかで読むことが出来るのです。写真になってしまったらそういうのは読めません。やっぱり現物を見ないといけない。

――ガリレオは資料がたくさん現存しているのですよね。

  当時のものは科学者だけではなく哲学者などについても、手紙を含めていろいろ残っています。手紙というのは私信だけではなくひとつの発表の手段でもあります。先取権論争が起こったときに、自分はだれそれに手紙を書いていた、というのもそれだけで十分な証拠になります。また、紙は貴重品なので、同じ紙の余白に書き込んで何年も使い続けるというのもよくあったことです。

――中公新書の『ガリレオ』を書くことになったきっかけは何でしょうか。

  イタリアの図書館でいろいろ本を読みましたが、ガリレオについてまだ研究されていないことがあり、そして、実際自分がイタリアに住んでみてじかにガリレオと同じ空気を吸って、そういう環境を経験したからこそ書けるものもあると思ったのです。

――私はガリレオに関する本を何冊か読んだのですが、田中先生の本が一番面白いと感じました。それは、ガリレオの人間性があらわになっているからです。この中公新書『ガリレオ』では、神格化された「ガリレオ」像が突き崩されていて、これを読むと、ガリレオというのは、ちょっと友人にはなりたくないようなタイプの人間だなあ、と思いましたね(笑)。

  それは時代的な背景もあるでしょう。当時は、今のような制度化された立身出世というものはありません。たとえば日本の大学だと、助教・専任講師・准教授・教授という職階があり、昇格基準というのがある程度明確になっているし、企業でも同じような制度があるでしょう。そういうものがガリレオの時代にはなかったんです。だから、立身出世するにはどうしても人間関係のなかで、大学での力関係のなかで伸し上がらないといけない。特にガリレオの場合は金銭的な苦労がありました。そういう状況で立身出世を勝ち取っていくには、ガリレオのような「やりすぎ」「自己顕示」は仕方のないことなのです。

――それはガリレオの出自の問題でもあるのですか。

  そうです。研究方法にしても、古代の権威者の書物をひたすら解釈していくという既成の方法ではなく、自然観測という別の方法をとったし、彼自身がピサに生まれてフィレンツェで若い時代を過ごしたこと、ピサという街の雰囲気、商業都市で生きたことにも影響されていたと思いますよ。

――ガリレオの身分はどのくらいですか。

  下級貴族です。しかも金持ちではない。ただし当時のイタリアで貴族制度が確立していたかどうかは疑問ですが。

――逆にいうと身分制度が固まっていなかったから、ある程度実力で出世できる社会だったということですか。

そうでしょうね。ただ貴族のなかでも金持ちと貧乏人は明確に分かれている。イギリスの貴族は領地を持っていますが、イタリアは都市貴族なのです。肩書きだけの貴族になる場合もあります。まあ、日本から想像するガリレオのイメージとイタリアで生活するなかで感じるガリレオのイメージはかなり違うでしょうね。

――『ガリレオ―庇護者たちの網のなかで』の執筆過程でガリレオに対するイメージは変わりましたか。

  いや、書くころにはもうすでに変わっていました。イタリアに住んでみて分かったのは、ガリレオの新発見の過程というのはそれはそれで重要だが、それよりも科学史の研究として普遍性を持っているのは、ガリレオにその研究をさせた内在的な動機は何かということです。そして、そういう視点は科学史家の多くが理系出身者であるということもあって、今まで意外に着目されてこなかった。私の研究はそういう空白地帯を埋めたと思います。どういう過程をたどって発見したかというのは、量子力学とか電磁気学とかなら意味があるでしょう。現象自体が複雑で、かつ科学が学問として確立しているのだから、実験しないとわからないというのは当たり前で、だから実験結果をどう解釈していったかは大切です。しかし、ガリレオの時代というのは、観測する・観察する・実験するというのは当たり前ではなかったんです。だから、そもそもなぜそういう実験や観測をしたのかという、もっと根本的な動機の解明がはるかに重要になる。真実を知るために、なぜ観測しなければいけないのか、という問題です。

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「世界天文年2009」へのメッセージ

――世界天文年2009もいよいよフィナーレですが、この1年、天文年に関わった人はもちろん、天文年をきっかけに広く宇宙に関心を持った人、そして天文学に興味を抱いた人たちに向けて、ガリレオ研究者としての視点からメッセージをいただけますか。

  世界天文年のイベントで楽しんでいる方はアマチュア天文家の方が多いと思いますが、やっぱり自ら空を観測するというのはアマチュア天文家の特権ではないでしょうか。いくつかの大学で天文学の専攻がありますが、そういうところで研究している教員や学生は毎夜、徹夜で夜空を観測するという余裕はないでしょう。直に星を見るということ。アマチュア天文家によって超新星が発見されていることも含めて、自ら夜空を観測する資格・能力を持っていることを誇りにして欲しいと思います。ガリレオの行った観測を自分で追体験するというのはアマチュアに与えられた特権です。

 

 

インタビューを終えて

 田中氏はイタリア滞在時代、料理学校の校長だった人から直接、イタリア料理の手ほどきを受けたそうです。「イタ飯」は食べるのも作るのも大好きだという田中氏がガリレオについて熱弁をふるうとき、パスタもゆで上がるくらいの気迫が伝わってきます。世界天文年2009が終わっても、ガリレオの魅力は多くの人々を引き寄せることでしょう。

 

田中一郎(たなか・いちろう)

●プロフィール
金沢大学教授。1947年兵庫県生まれ。 東京大学大学院科学史・科学基礎論修士課程修了。日本大学助手、金沢大学助教授を経て、現職。専攻は科学史。著書に『ガリレオ―庇護者たちの網のなかで』(中公新書)、『ニュートン・光学』(訳、朝日出版社)、『ガリレオの娘』(監修、DHC出版)など多数。

 


 

『ガリレオ―庇護者たちの網のなかで』田中一郎著(中公新書)/(c) 中央公論新社

 


 

金沢大学にお邪魔しました

 


 

*1:毀誉褒貶(きよほうへん)
  悪口を言うこととほめること。

 

*2:青木靖三(あおき・せいぞう)
  1926-1977年
  元神戸大学教授。科学史家。ルネサンス期の科学やガリレオの研究で知られる。おもな著書に『ガリレオ・ガリレイ』、『ガリレイの道―近代科学の源流』など。

 

*3:伊東俊太郎(いとう・しゅんたろう)
  1930年生
  東京大学名誉教授。専攻は、科学史、科学哲学、比較文明学。中世科学史、ギリシャ数学史、アラビア科学史などの研究から東西比較科 学史、比較文明論の研究に進む。おもな著書に『近代科学の源流』、『科学と現実』、『比較文明』、『十二世紀ルネサンス』など。

 

*4:中島義道(なかじま・よしみち)
  1946年生
  元・電気通信大学教授。哲学者・作家。専門のカント研究にとどまることなく、日欧における精神構造の違い、日本社会での不条理・生き辛さについてのエッセイなど著書多数。近著は私小説『ウィーン家族』。私塾「哲学塾カント」主宰。

 

*5:東浩紀(あずま・ひろき)
  1971年生
  東京工業大学特任教授。批評家。1993年、「ソルジェニーツィン試論」(『批評空間』誌に掲載)でデビュー。『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』でサントリー学芸賞を受賞。サブカルチャーの表象から現代を解体する『動物化するポストモダン』はベストセラーに。近著は小説『クォンタム・ファミリーズ』。

 

*6:廣重 徹(ひろしげ・てつ)
  1928-75年
  元日本大学教授。科学史家。現代物理学史の研究および近代日本における科学の社会史的研究で知られる。おもな著・訳書に『危険と希望』(A.K.スミス著)、『近代科学再考』、『物理学史』、『原子模型』など。

 


 

 

 

 

 

 

田中氏の研究室には、古今東西の文献がぎっしり。科学史は、科学・歴史・思想を横断します。

 


 

ガリレオ全集。ラテン語やイタリア語で書かれています。

 


 

「ガリレオが、なぜ実験や観測をしたのかという、より根本的な動機を解明したい」と語る田中氏。背景の額には、ピザの斜塔の内部構造図。

 


 

金沢もフィレンツェ同様、歴史ある街です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


聞き手:
西山保長(にしやま・やすなが)

●プロフィール
国立天文台天文情報センター広報普及員。世界天文年2009ウェブコンテンツ「ガリレオの生涯」をまとめる。夢は第2のソーカル事件*7を起こすこと。あるいはソーカルに批判されたい。理系文系ハイブリッドに頑張りたいです。

 


*7:ソーカル事件
  物理学者アラン・ソーカルが、科学用語や数式を含んだ擬似論文を意図的に現代思想の専門誌に投稿し、それが掲載されたことに起因する一連の騒動。


 


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