世界天文年2009:ガリレオの生涯 - 14.『新科学対話』/もう一度、真理の光を

14.『新科学対話』

もう一度、真理の光を


出版工作

 『新科学対話』は力学の研究をまとめた書である。『天文対話』同様、イタリア語による対話の形式で記述してある。1635年の夏に一応の完成をみたこの書について、問題はそれをどこで出版するか、ということだった。当然、イタリアには出版を引き受けてくれるところはない。そんな折、オランダの出版業者エルゼヴィルがガリレオを訪問し、出版を引き受けてくれることになった。しかし、オランダはローマ教皇庁と対立するプロテスタントの国であり、そんなところで教皇庁の許可なく出版活動を行えば、さらなる刑罰を受けてしまう可能性があった。そこで、ガリレオは知恵をしぼる。ガリレオがパドヴァで大学教授をしていたころの教え子で在ローマのフランス大使ノアイユ伯爵と面会したガリレオは、ノアイユからたまたまオランダのエルゼヴィルの手に渡ったのだということにして、そういう嘘のいきさつを『新科学対話』の献辞のなかに記した。実際は、ガリレオがエルゼヴィルに直接渡したのにもかからわらず、である。
 1638年7月に『新科学対話』は出版される。たとえ裁判で罪を認めていても、ガリレオは真理の光を見つめようとしていた。自分が得た真理を世に知らせたい、と思っていた。そして、その代償は大きく、『新科学対話』が出版されるころ、ガリレオは全盲になっていた。ガリレオの科学者としての仕事は終えようとしている。あとは、自分の死を待ち、それを受け入れるだけである。


口述筆記

ガリレオ最晩年の口述筆記のようす(フィレンツェ自然史博物館別館「ガリレオの部屋」の天井画)。ガリレオ最晩年の口述筆記のようす(フィレンツェ自然史博物館別館「ガリレオの部屋」の天井画)。 1635年、フィレンツェの中心部に住む息子ヴィンチェンツィオと同居することを許されたガリレオではあったが、翌年には、郊外のアルチェトリの家にまた戻った。そして、ガリレオの最後の弟子で、最初の伝記作家となるヴィンチェンツィオ・ヴィヴィアーニがそこにやってきて、同居がはじまった。大気の圧力について研究し、水銀が入った容器をさかさにしたときにできる「トリチェリの真空」の発見者として知られるエヴァンジェリスタ・トリチェリが筆記者兼話し相手としてそこに加わった。
 ガリレオは『新科学対話』の加筆を考えていた。口述筆記で文を作っていった。そして、その仕事も完成しないまま、ガリレオの体調は悪くなっていく。1641年秋の発病から2か月間苦しんだ後、翌1642年1月8日に永眠した。78歳になる1か月前のことだった。


死後の名誉

ガリレオの遺骸がまつられたサンタクローチェ教会。ガリレオの遺骸がまつられたサンタ・クローチェ教会。ガリレオの遺骸がまつられたサンタ・クローチェ教会。 ガリレオはトスカナ公国の公的な葬儀を経て霊廟にまつられる予定だったが、その計画がローマ教皇庁に知れると、教皇庁はそれを中止するようにトスカナ公国に命令を出した。結局、ガリレオは私的な葬儀ののち、フィレンツェのサンタ・クローチェ教会の見習修道士礼拝室横の小部屋に葬られた。
 1737年になって、ガリレオの遺骸は、教会関係者の臨席のもと、礼拝室から教会の本堂に移され、霊廟が造られた。『天文対話』が教皇庁の禁書目録からはずれるのは、1757年のことである。
 1979年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世がガリレオ裁判の再調査を命じ、1992年、ガリレオを有罪としたカトリック教会の誤りが認められた。
 ガリレオの名誉は死後に徐々に回復していき、18世紀なかばには誰も彼を批判しなくなっていた。そして、同時にガリレオの偉大さは高まっていった。

ガリレオ像とガリレオの生涯を描いた天井画(フィレンツェ自然史博物館別館「ガリレオの部屋」)。ガリレオ像とガリレオの生涯を描いた天井画(フィレンツェ自然史博物館別館「ガリレオの部屋」)。

サンタ・クローチェ教会内のガリレオの墓。サンタ・クローチェ教会内のガリレオの墓。サンタ・クローチェ教会内のガリレオの墓。