世界天文年2009:ガリレオの生涯 - 12.『天文対話』/教皇庁との蜜月、そして暗転

12.『天文対話』

教皇庁との蜜月、そして暗転


教皇ウルバヌス八世

 1623年、ガリレオの古くからの友人だったマッフェオ・バルベリーニが教皇に選出され、ウルバヌス八世となった。ガリレオはこの旧友を祝うため、1624年にローマを訪れている。このときのローマ訪問はもっとも華やかなものとなった。教皇から数々の宝物を下賜され、さらには息子ヴィンチェンツィオのための年金の約束さえ得た。このとき、教皇庁にはガリレオの知人が何人かおり、教皇庁は身内によって占められているようなものだった。ガリレオにはもはや心配することは何もないように思えた。だから、潮の干満を根拠にした地動説する著『天文対話』を執筆することのリスクをガリレオは考えることができなかったのだ。そして教皇ウルバヌス八世が、ガリレオの友という私人の立場とカトリックの指導者である教皇という公人の立場をはっきり分けていたことまでは、ガリレオは気づかなかった。


『天文対話』の刊行

 『天文対話』の執筆は必ずしも順調ではなかった。ひとつにトスカナ大公への宮仕えがある。これは大学に所属せずに研究を続けているガリレオにとって避けることのできない事情だ。そして、もうひとつ『天文対話』の執筆を妨げたのは、ガリレオの健康だった。
 彼はこのころ身体の関節が痛む病を抱えていた。症状がひどいときには床にはりつけにならなければいけないほどであった。また、1630年には、ペストがヨーロッパ全土で大流行し、ガリレオ自身は感染しなかったものの、病気をおそれ窮屈な生活を強いられた。
 さまざまな困難のすえ、1632年、『天文対話』が刊行される。

『天文対話』の表紙(画像提供:Istituto e Museo di Storia della Scienza, Florence)『天文対話』の表紙(画像提供:Istituto e Museo di Storia della Scienza, Florence)

不穏な予兆

 ガリレオは『天文対話』を出版するにあたり、まずローマでの検閲を通そうとする。1630年、ローマに行き、教皇をはじめとする教会の関係者と会い、暫定的ではあるが出版許可を得ることができた。しかし、予想外だったのはローマでの出版を引き受けることになっていたフィデリコ・チェシという貴族が急死するのである。そこでガリレオは計画を変更しフィレンツェでの出版を考え始める。本来ならばローマにもういちど出向き、最終的な出版許可を得るつもりだったが、ペストの流行により交通が遮断されていたため、検閲をフィレンツェで受けることにしたのだった。


出版許可の取り消し

晩年のガリレオの肖像イラスト。晩年のガリレオの肖像イラスト。 『天文対話』は実はその検閲も通っていた。出版の許可を得て1632年の2月に刊行された。しかし、7月、教皇がその本を差し押さえており、しかるべきところを訂正するまでどこにも本を送らないよう命じていることを突然に知るのだった。一度は出版を許可された書物がなぜ唐突に禁止になったのか、明確な理由ははっきりしない。ただし、前兆はあった。ガリレオに近い人物が教皇のそばから左遷や栄転のために外れていたのである。
 『天文対話』は地動説を説いてはいるが、その地動説の最大の根拠を潮の干満に求めていた。天文観測での発見は地動説を支持するものではあるが、ガリレオにとってそれは理論の主柱になるものではなかった。『天文対話』についての囂々たる非難のほとんどは、このガリレオが犯した科学的な過ちを指摘するものではなかったのは、皮肉なことだろう。『聖書』や教会への態度について、ガリレオは批判された。ガリレオは学問の世界から政治の世界の登場人物として、さまざまな批判の矢面に立たされることになったのだ。