世界天文年2009:ガリレオの生涯 - 9.栄光と終焉のはじまり/ヴェネツィアからフィレンツェへ

9.栄光と終焉のはじまり

ヴェネツィアからフィレンツェへ


哲学者ガリレオ

 パドヴァ大学があるヴェネツィア共和国は、その名のとおり共和国であり特定の君主がいるわけではない。だから、自由な環境で、君主の顔色をうかがったりする必要がない。また、ローマ教皇庁との対立関係から、宗教的にも縛られない土地柄なのだった。しかし、自分の待遇に不満を持つガリレオは、そのヴェネツィアを離れトスカナ大公国に栄誉とともに凱旋をしようと画策する。トスカナ大公国首相ヴィンタは、ガリレオに授業をする義務のないピサ大学特別教授、またトスカナ大公付き数学者兼哲学者、として遇することを約束する。かくして、1610年、ガリレオはフェレンツェへ帰国するのだった。ガリレオがこだわったのは、単なる数学者ではない、「哲学者」としての肩書きだった。実際的なものよりも思弁的なもののほうが上位とされる当時のヨーロッパにあって、ガリレオが哲学者として認められることは、そのまま彼の地位が高くなったことを意味していた。

現在のフィレンツェの街並み。現在のフィレンツェの街並み。


友人たちの危惧

フィレンツェ時代の家。「日傘荘」と呼ばれた。望遠鏡観測に好適な高台に建っていた(画像提供:田中一郎)。フィレンツェ時代の家。「日傘荘」と呼ばれた。望遠鏡観測に好適な高台に建っていた(画像提供:田中一郎)。 ガリレオの友人たちは、このフィレンツェ行きの決断にみな反対した。確かにそれは出世であるし、年俸も今よりもはるかによくはなる。しかし、一人の君主に仕えるということは危険が大きい。君主の心変わりや、その死によって、己の地位はもろくも崩れ去ることがあるのだ。また、イエズス会の力も強いトスカナ大公国で自由な発言ができるとも限らない。友人たちはガリレオに翻意を求めたが、ガリレオの意志は固く聞き入れられない。ガリレオの後の悲劇は、このときから既にはじまっていたのだった。


ひとりの息子、ふたりの娘

 ガリレオは生涯、結婚しなかった。しかし、それは正式な式を挙げていないというだけであり、たとえば修道士が結婚しないように、当時の学者の風儀をならい法律上は独身であった、というだけだ。つまり、ガリレオには内縁の妻がおり、またその妻との間にひとりの息子とふたりの娘をもうけていたのだった。
 ガリレオの事実上の妻マリナ・ガンバとはヴェネツィアで出会ったようである。そして、ヴィルジニア、リヴィア、ヴィンチェンツィオの3人の子供も、ガリレオのパドヴァ大学教授時代に生まれている。フェレンツェへ帰国する際、妻とは離別した。それからガリレオは長女ヴィルジニアと次女リヴィアのふたりの娘を修道院に入れようと画策する。そのとき長女は10歳、次女は9歳で、ともに修道院で暮らすには幼すぎた。ガリレオの父親としての子への愛情を疑わせるものがそこにはあるのだが、ガリレオの経済的状況や家庭の事情からしてそれは仕方のないものだったのかもしれない。長男ヴィンチェンツィオとの間には、いつも確執があった。ガリレオはヴィンチェンツィオにピサ大学で法学を学ばせている。ガリレオはいつも息子の浪費をなじり、だがヴィンチェンツィオは質素な生活を強いられていて、しばしば父に金の無心をした。晩年、ガリレオの支えとなってくれたのは、修道女となって名をマリア・チェレステと変えた長女だけだった。ガリレオの家族からは、どこかしら不和のにおいがただよっていた。

フィレンツェ自然史博物館別館の「ガリレオの部屋」には、ガリレオの生涯を辿った壁画が数多く描かれている。フィレンツェ自然史博物館別館の「ガリレオの部屋」には、ガリレオの生涯を辿った壁画が数多く描かれている。

ガリレオの部屋の中央に立つガリレオ像。ガリレオの部屋の中央に立つガリレオ像。ガリレオの部屋の中央に立つガリレオ像。