世界天文年2009:ガリレオの生涯 - 8.『星界の報告』/観測成果を直ちに出版

8.『星界の報告』

観測成果を直ちに出版


ケプラーの反応

『星界の報告』の表紙(画像提供:Istituto e Museo di Storia della Scienza, Florence)『星界の報告』の表紙(画像提供:Istituto e Museo di Storia della Scienza, Florence) ガリレオの新発見は、『星界の報告』という名の書物となって世間に伝えられた。1610年3月12日に出版された『星界の報告』は、さまざまな反響をひきおこした。ガリレオの言葉にすばやく反応したのはケプラーである。
 プラハに住む皇帝付き数学者ヨハネ・ケプラーは、ガリレオの説を知って、彼に最大限の賛美を送るにとどまらず、さらにその先を考えた。ケプラーは前年1609年に、すでに惑星の軌道が楕円であることを証明し、地動説を強固なものにしていた。また、ガリレオに対し、望遠鏡の製作方法についてアドヴァイスもしている。ガリレオはレンズを球面に加工していたが、レンズを双曲面に磨いたほうが望遠鏡の性能が上がることをケプラーはガリレオに伝えているのだ。
 ケプラー自身が実際に望遠鏡をのぞいてガリレオの発見を確認するのは、『星界の報告』の感想をガリレオに伝えてからのことだった。ガリレオがケルンの選帝侯に送った望遠鏡でケプラーが夜空を見る前に、月に山や谷があるのならそこに人々が住んでいるに違いない、とすでにケプラーはガリレオに手紙を出している。


世間の反響

 けれども、ガリレオの発見に対して、ケプラーのような態度を示したのはむしろ例外的だった。当時の知識人は、ほとんどアリストテレス主義者で、『聖書』をかたくなに信じていたので、ガリレオの説は、アリストテレスと『聖書』の両方を否定するものだと捉えられ、とうてい受け入れられるものではなかったのである。実際の宇宙がどう見えるか、よりも世界をどう考えるか、の方が重要な問題であって、望遠鏡で木星の衛星が見えたからといって、それが説得力を持つとは限らなかったのである。


土星

 1610年6月、ガリレオは望遠鏡を土星に向ける。そして、土星が3つの星からできているのを知るのだった。実際は、ガリレオの望遠鏡では解像度が低いため、土星の環は見えず、3つの星が連なっているように見えたのである。ガリレオはこの発見をまずトスカナ大公国首相のヴィンタにだけ知らせた。また、自分が新発見をしたことの証拠を残すため、イタリアやドイツの友人たちにはアナグラム(暗号)にして伝えた。このアナグラムを受け取ったケプラーは、ガリレオが何か新発見をしたのだということは分かっても、その内容が分からないため、ガリレオの作ったアナグラムを解読することに精を費やすことになった。
 土星の観測は行き詰まった。3つに見えるその星が実は環であるという発想はガリレオにはなかった。けれども、土星の様子は木星とその衛星とは全く違う。結局、結論の得られないまま土星の観測を終えた。土星に環があるのが分かったのは、1655年にオランダの科学者ホイヘンスが倍率100倍の望遠鏡で観測をしてからのことである。

土星のスケッチ土星のスケッチ

土星の環の変化土星の環の変化

●土星のスケッチと環の変化
ガリレオが描いた土星のスケッチ(左/画像提供:Istituto e Museo di Storia della Scienza, Florence)。環に分解できず、ガリレオの眼には「3つの星に見えた」。右は、土星の環の見かけの傾きの変化の連続写真。今年は薄い環を真横から見る位置関係となって環が見えなくなる。(画像提供:平野岳史)

ガリレオの戦略

有力者に望遠鏡を披露するガリレオのようすを描いた、フィレンツェ科学史博物館「ガリレオの部屋」の天井画。有力者に望遠鏡を披露するガリレオのようすを描いた、フィレンツェ自然史博物館別館「ガリレオの部屋」の天井画。有力者に望遠鏡を披露するガリレオのようすを描いた、フィレンツェ自然史博物館別館「ガリレオの部屋」の天井画。 ガリレオは1610年の前半だけで100台ほどの望遠鏡を製作している。ガリレオは、その自作望遠鏡をヨーロッパ各地の要人たちに『星界の報告』と一緒に、トスカナ公国の大使たちの手を通じて配ったのだった。これによって、ガリレオの名声とともにトスカナ大公の権威をも高めた。これらのガリレオの行為は、ヴェネツィア共和国のパドヴァ大学での処遇は未だ十分であるとは感じられないガリレオがトスカナ大公国に凱旋したいと思ってのことだったのかもしれない。