世界天文年2009:ガリレオの生涯 - 4.栄光への第一歩/ピサからパドヴァへ

4.栄光への第一歩

ピサからパドヴァへ


パドヴァ大学数学教授に就任

パドヴァ大学のガリレオの胸像。パドヴァ大学のガリレオの胸像。 1592年、ガリレオはピサ大学教授を辞職する。その理由は、ピサ大学に実権をふるうトスカナ大公の不評を買ったから、だとか、アリストテレス派の哲学者に攻撃されたから、だとか、さまざま推測されるが、もっとも直接的な原因となったのは、ピサ大学での待遇の悪さだろう。ガリレオがピサ大学を辞める前年、ガリレオの父が急逝し、ガリレオは家長として母や、妹、弟たち家族を養わないといけなくなった。同僚ともうまくいっていたとは決していえないガリレオには、よりよい待遇、具体的には今よりも高給なポストへ移る必要があったのだ。その時ちょうどヴェネツィア共和国のパドヴァ大学の数学教授が空席になっていたので、ガリレオは有力者の支援も利用して、その職に応募したのだった。そして、如才なくパドヴァ大学に就職したガリレオの任期は4年、年俸も大幅に増えた。


現在のパドヴァの街並み。現在のパドヴァの街並み。

パドヴァ大学の構内。パドヴァ大学の構内。

パドヴァ大学に保存されているガリレオの演台。パドヴァ大学に保存されているガリレオの演台。


もっとも幸福な時代

 パドヴァでのおよそ8年間の生活を、後にガリレオは「もっとも幸福な時代」と述べている。パドヴァ大学は、当時のヨーロッパの知的中心地であり、アルプス以北の国々もふくめ、全ヨーロッパから優秀な学生が集まってきていた。パドヴァ大学は医学部が中心の大学で、神学部が重きを占めるほかの大学よりも、科学にたいして自由な空気があった。また、ヴェネツィア共和国がローマ教皇庁と対立していたこともあって、宗教的に自由な、つまり、思想的に自由なこの地で、ガリレオはその生涯の業績の半分以上のものを、ヴェネツィア共和国パドヴァ大学数学教授の時期に積み上げるのである。

パドヴァ時代の家。前の道は「ガリレオ通り」と名づけられている。パドヴァ時代の家。前の道は「ガリレオ通り」と名づけられている。パドヴァ時代の家。前の道は「ガリレオ通り」と名づけられている。

パドヴァ大学前にあるガリレオのモニュメント。パドヴァ大学前にあるガリレオのモニュメント。パドヴァ大学前にあるガリレオのモニュメント。