世界天文年2009:ガリレオの生涯 - 2.青年時代/自由な学問への憧れ

2.青年時代

自由な学問への憧れ


医師を目指した青年時代

ピサ大学正面の大時計。ピサ大学正面の大時計。 ガリレオの父、ヴィンチェンツィオは息子ガリレオを医者にしようと考えた。父のさまざまな画策の結果、1581年、ガリレオはピサ大学に入学許可を得る。当時のピサ大学には医学部と法学部、そして現在の教養課程に相当する教育を行う学芸学部があった。まず、ガリレオは医学部への進学を目指して、学芸学部に登録する。しかし、その正規の課程を終えることなく、3年半の在籍の後に退学した。この時、すでにガリレオは学問への道を心に決めていたようである。当時、大学に職を得るとしても、大学を中退したという経歴はかならずしも不利になるものではなかった。実力や実績のほうが大切だったのである。

ピサの大聖堂。ピサの大聖堂。

このころ、大聖堂内のシャンデリアの揺れを観察して、振り子の等時性の原理を発見したとされる。そのようすを描いた、フィレンツェ自然史博物館別館「ガリレオの部屋」の天井画。このころ、大聖堂内のシャンデリアの揺れを観察して、振り子の等時性の原理を発見したとされる。そのようすを描いた、フィレンツェ自然史博物館別館「ガリレオの部屋」の天井画。

師との出会い

 ガリレオを大学から遠ざけた原因のひとつに、数学者リッチとの出会いがある。トスカナ宮廷をガリレオが訪ねたとき、宮廷付き数学者オスティリオ・リッチがユークリッド幾何学を教授している現場にたまたま出くわしたのだった。大学の外にいるリッチからガリレオは自由で、そして実用的な学問を教わった。ガリレオがとくに興味を持ったのはアルキメデスで、その実際的、実験的な思考方法は、アリストテレスの学問観一色に染まった大学から、ますますガリレオを遠ざけたのだった。


就職活動

ピサ大学構内。建物自体は400年前と大きくは変わらない。ピサ大学構内。建物自体は400年前と大きくは変わらない。 ピサ大学を中途退学したガリレオは、様々な研究に取り組んでいる。将来、大学教授になることを見越して、アリストテレスについての講義ノートも作っていた。1586年、ガリレオはアルキメデスからの学習に基づいた著『小天秤』を書いている。そして、彼はその書をひっさげて大学教授へ向けての就職活動を開始する。まず、ガリレオはローマに旅立った。ローマ大学とボローニャ大学の教授職を目指すが、あっさりと断られる。1588年、パトヴァ大学の数学教授になろうとヴェネツィア共和国に出かけるが失敗。直後にピサ大学で数学教授の空席が生じ、そこにも挑戦するが、やはり失敗した。フィレンツェ大学への就職もうまくいかず、空しい努力が続いた。1589年、ピサ大学のポストが再び空席になり、この浪人時代にもガリレオは業績を着実にあげていたこともあって、ようやく、数学教授の席に就けたのであった。


ピサ大学数学教授に就任

 有力者の後ろ盾もあって、ピサ大学数学教授に就任したガリレオの待遇は、しかし決して良いとはいえなかった。再任が認められているとはいえ、任期は3年、年俸は60スクードしかなかった。ピサ大学の同僚教授が平均して200スクードを得ていたことを考えると、ガリレオの薄給ぶりは明白だろう。不満はいろいろあるが、そのときのガリレオの経済状況から考えても、ピサ大学数学教授の職を断ることなど、ガリレオには到底できないことだった。